生き物を食べるありがたさ

狩猟の話しで語られた衝撃的な2つの話

『猟師、花火師、ときどき祭り』著 大島公司

2年間、大手広告代理店でサラリーマンをした著者が、仕事を辞めてからどのようにして生きてきたかが綴られている。東日本大震災の復興支援、イノシシやシカなどの獣を狩り食べる狩猟活動、地域の祭りを再生させたり。資本主義社会、貨幣経済の日本でお金に重点を置かずに生きることの厳しさを描きつつ本能的なノリと行動力で生き抜く力強さと可能性を示してくれる本だと感じた。

スーパーで買ってきたお肉と狩猟でとれたお肉のありがたさは変わらない!

なんと近所のスーパーで買ってきたいつものお肉と山で狩りをして得たお肉とは食べる段階では、ありがたさはさほど変わらないらしい。勝手なイメージでは、狩りでとったお肉は、生き物の命をいただくという実感がダイレクトに感じられ、誰もが心からの感謝を感じつつ”いただきます”を言うことができるようになる、と思っていた。しかし現実はもっとドライであっさりしていた。

獲物を絞めて皮を剥ぎ終わるあたりから、それは生き物から食材に変わってしまう。皮を剥ぎお肉をバラしていくと、見覚えのあるスーパーで売っているお肉のイメージに近づいていく。すると扱い的にも両者はほぼ同じだと言う。

獲物が捕れたら山の神に感謝の儀式をする猟師はほとんどいない! 

これも素人の勝手な理想を強要していただけ!年に2〜3数匹しか捕れないなら、そんな儀式をすることもあるかもしれない。しかし現実は、年間何十匹と取る猟師もいるのだからそんな儀式いちいちしていられない。そんなことをするよりも一匹でも多く狩る方が農家の作物を獣から守ることに貢献できる。もちろん、広い世の中だから儀式をする猟師もいるかもしれない。しかし、そんな人はあまりいないそうだ。

まとめ

この2つの事実は、猟師を目指す僕にとってはある意味で理想を崩れさせてしまったのかもしれない。しかしかえって、無駄に敷居を高くせず、『単純にやってみたい!美味しいお肉も食べてみたい』と気軽な気持ちでチャレンジしていいのだ!とハードルを下げてくれた気がする。よし!やってやろうじゃないか!